読む本が無限に増える話
2024年の年始に本を5冊買いました。おそらくみなさんも積読していると思いますが、かくいう私も購入する本の3、4割は積読状態です。溜めたまま新しい本と出会ってしまい中々その時面白いと思った本を思うように読み切ることができないのですが。それでもふとした表紙に自分の本棚を眺めていると、過去の自分が興味があっただけあって読みたい本が揃ってるんですよね。
1ヶ月ほど前に引っ越しをして、生活の拠点を変えました。この時に一旦持っていく本を厳選する必要があったのですが。好きな技術書、表紙を見るだけでモチベーションが湧く本、あとは積読を2、3冊を持っていこうと思い、その中に「『人生、こんなはずじゃなかった』の嘆き」という本がありました。
私自身年始は研究発表の準備に忙殺されていたこともあり、やっている研究とインターンで自分の時間を取ることもままならず、無理をして再度入学した大学の集大成はこれでいいのか?という気持ちになっていました。そのような無意識の中で手に取った本だと思います。
ブログ文章を考えたり、読書感想文を書くのがもう5~10年前なので自分のペースがよく分かりませんが、自分に刺さるいい本だったのでアウトプットします。
第一部 「我が人生に悔いなし」と言って死ねますか
死ねない気がします。それは僕が今20代だからなのか。やりたいことができていないからなのか。死への覚悟がないからなのか。はたまた全てが理由かは分かりませんが。少なくとも人生に悔いがないかと聞かれて、「はい!」と言えるほど生きていません。
何をそんなに悔いているのか?について考える前に少し今の自分を見つめてみます。
僕は結構クヨクヨといろんなことを考える割に楽観的な部分もあるので、暇になると悩みがち、やることが多いと何事も楽観しがちなのです。なのでこの本が刺さるってことは多分暇なんだと思います。確かに引越しも終了してから1ヶ月経ち、本業もはちゃめちゃに忙しいわけはなく、もともと1人で生活することには慣れていたので生活に大きな変化もありません。忙しすぎて何をするにも時間がないということはないので、暇です。そんな中でふとなんとなくこの本を手に取りましたが、読み始めて20分で引き込まれていきました。
「死に向かって生きている」、「死ぬまでの暇つぶし」、「終活」等、死生観にはいろんな考えや主張がありますが、少なくともここから、死ぬことについて関心がある人が一定数いるということが読み取れます。そこに至るまでの過程に悔いがないとはどういうことか。一言で言えば「終始一貫して念願を成就すべく活動を継続したか」だと言っています。
「顧みて何ら悔ゆるところがない」という人生は結果なのである。
全ての結果には過程がある。
「顧みて何ら悔ゆるところがない」という人生は、
「終始一貫、この念願を成就すべく活動を継続した」過程の結果である。
わかる。気がする。
確かに終始一貫した人生というのはとても憧れるし、そこまで一貫することのできる念願を言語化できたら、また体現できたらさぞかし悔いのない人生だろうと思う。さて、そしたら一旦悔いることばかりの人生にも目を向けてみます。
やろうとしたことの一つでもしていたら、俺の人生も違ったものになっただろう
こういって死んでいく人がいると言います。
これは、判断力がないから悔いることになるのだと筆者は言っています。偏った価値観にしがみついているから、「これしか生きる道がない」と思っているから苦しいのである、と。さらにこれらの人の特徴を列挙してみると
- 今苦しんでいる人は、望ましい人生とは社会的に成功した人生としか考えない
- そして根拠のない優越感を求めている人たちである
- 失敗を恐れている人たちである
- 人生の問題から退却した人たちである
- 人生の戦線の後ろで動かない。つまり戦線に参加しない
- 人生の戦線から撤退しても、自分が撤退していることを認めない
とのこと。
“戦線からの撤退には、優越のための密かな目的が隠されている”らしい。これは昔嫌われる勇気で、「今ある状況はあるべくしてある。」みたいなことが書いてあったようなのを思い出させられました。
赤面症の例がありませんでしたっけね。
あなたが赤面症なのは、何か行動を起こして失敗することが怖いから。失敗しないように赤面症になっていて、赤面症だから行動することができないという状況を作り出している。気の持ちようですぜ。
みたいな内容を思い出しました。これはでも確かに、悔いてばかりの晩年を迎えるということは確かに、人生の問題から逃げ続けた結果だと思います。
また、読んでいると人生の戦線に参加しようとするときに、自分の子供を手段にして人生の戦線に参加しようとする親もいると言います。これは確かに心当たりがあるけどここではスルーしておきましょう。
ではでは、人生の戦線に参加するためにはどうしたらいいのか。1つは、やりたいと思ったことをやること。らしいです。
急にちょっと自己啓発っぽい。笑
要は、クヨクヨするのが陰鬱だからやめましょうね、というメッセージなんじゃないかと思いました。
「『陰気』とか憂鬱とか、無関心とか、冷淡とか、退屈とか、病的なためらいとか、考えがまとまらないとか、優柔不断とか、疑い深い、とかいう状態は、劣等感の証拠だ。」
クヨクヨしてる状態ってのは、自分に失望している人の症状らしいです。そしてそこには何よりも解決の意思と自由がないんだと。「誰か私のトラブルを解決してください」の訴えが「クヨクヨ」なんですって。
解決の意思がないからクヨクヨと悩んでおり、解決に動き出すよりもクヨクヨしている方が心理的に楽だからそうなっている残念な状態なんですね。
そして悪いことに、クヨクヨしている人は弱い人を責め続ける。ともあります。例えば妻にうるさく小言を言ったり、理由を見つけては責め続ける。問題は妻ではなく、自分自身への失望なのに。
これはでも心当たりというか、直感でわかるような気がしますね。人ができている人、自分の立ち位置や役割が自分でわかっていて、充実している人はわざわざ人を責め立てることはしないですもんね。そういうことです。
彼らは(僕か?)本当の自分の願望を表現するのが怖いからそうなってるらしいです。
簡単にいうと、逃げることをやめればすぐに治るらしい。自分の責任から逃げてきたことのツケが「人生の後悔」ということですね。
ここからパンチ力強くて面白いので、がっつり引用して締めたいと思います。
例えば私が公園で「悩んでいる人はマザコンである」という。するとすぐに「どうしたらマザコンを治せますか」と安易な解決方法を求める。すべて手軽に、辛いことをしないで、心理的に楽して解決しようとする。
自分がいつまでも待っていれば、その障害が消えてなくなるか、誰かが変わって解決してくれると思っている。たかを括っている。人生を舐めている。
ローマを1日で作ろうとする。他人と同じように自分も努力するしかないと認めたがらない。自分にだけ特別に安易な人生が用意されていることを求める。
他人の人生に困難があるように、自分の人生にも困難はあると腹を括れない。自分の人生にだけは困難がないことを要求する。だからいつまで経っても悩み多き人生なのである。
だからいつも悩みがある。だからいつも悔しい。人が騙されるように自分も騙されることがある。自分だけいつも誠実で良心的な人にばかり囲まれて世の中を渡っていくわけにはいかない。
小さい頃から自分の意思で動いていないで、人生の最後に「我が人生に悔いなし」と死んでいくことを求めても、無理である。
書き残しておきたい文章や気持ちが多くて全然進まなかったですが、今回記事はここまでにしようと思います。
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