社会人初の夏休み始まりました
お題の通りです。
ついに。私夏休みに突入しました!
社会人になってから初めての夏休みです。嬉しくてたまらないですね。
学生時代はお金や研究の心配をしたり、遊んでていいのか、、、?という気持ちが邪魔をしていたように感じます。切り替えが下手くそだったんですね。
今年は気持ち的には、毎日頑張ってるんだから夏休みあってもいいだろうという。
満喫する気満々です。まぁ予定の量は気持ちに対して反比例していますが。。。
前回の続き
本日は人生の嘆き第二弾です。
前回記事はこちらです。
読み返してるページ数で言うと現状まだ34ページですね。
書きたいことが多すぎて進みません。笑
突然ですが皆さんは好きなことが何かはっきりと言えますか?
僕は自信がありません。
植物育てたり、筋トレしたり、温泉にゆっくり浸かったり、キャンプ行ったり、ご飯作ったりは好きです。ただ熱狂とか、熱烈な愛があるってのはなかなかないですね。
この本曰く、好きなことが見つからないのは視点が少ないからだそうです。価値観が歪んでいるからだそうです。
そしてさらに言うと、不幸を受け入れられない人だそうです。
読んでみると、自己理解が甘いことが原因で幸せを逃していると言っているように思えます。
前提として、自分の行動によって幸せを感じる、満足を得ようとすることが自然な流れだとします。ここで、自分にできることしかしない人(著者曰くあなた)は、それでは満足できないと言います。ところがそーゆー人に限って「しようとすること」は非現実的なほど高い期待なのです。
だから、「さぁ、やるぞ」とする意欲が現実では空回りするのだと。
自分にできることでは満足できないのは、自分の心に抱えてる問題を考えていないからだそうです。
これ、確かに言ってることわかる気がします。
充実感や満足感があるのは、自分で自分の人生をコントロールしてる感覚がある時。そーゆー時は大体何かにチャレンジした時であったり、自分の決めたルールを守れたときであったり。
内部的にも外部的にも、挑戦がきっかけで発動した満足感であることが多いです。
そりゃ無意識の領域に憎しみを抱えていたら、現実の世界でやりたいことは見つからなそうですよね。このような心持ちだと、夢は「単なる欲求不満の症状」でしかなくなると言います。
本当にそう。
とにかく自分のことが嫌いで、周囲が憎くて、マイナスな言葉で自分を満たしていた時期の夢は、
「復讐」
と言ってもあながち間違いではない気がします。〜を見返してやるとか。自分の努力で恥をかかせてやるとか。無意識の領域にあるすごい憎しみを晴らすことが、無意識的に夢になっていたように思います。
怖いですね、、、
これが無意識なのが余計怖い。
これは、ベラン • ウルフ曰く、「幸せになれないロマンチスト」らしいです。いいですねこれ。笑
いつも何かに追われてるけど、本当にやりたいことはやれてない。でも本当にやりたいことなんてあるの?その焦りはなんなの?状態には、僕も心当たりがあります。
現実に目を向けたらやることはたくさんあるのに、自分自身が見えてないからなんか宙ぶらりんな焦りがずっとある状態ですよね。この状態は辛いけど根本がふわっとしてるから辛い。
一つ、本が示唆を与えてくれてる部分を抽出してみると、
することが見つからないのは、
自分のイメージを大切にしすぎているから
だそうです。理想のイメージを大切にしすぎて実際の自分を無視しているからすることが見つからないのだと。神経症的自尊心が強すぎるんですって。
これが行きすぎると、人生の優先順位が自分を重要人物に見せることになってしまうそう。
なんか言ってることわかる気がするんですよね。自分がやってることに自信がない時ほど、やってる感を出したくなるみたいなことだと思いました。
頑張ってるのに気づいてもらうことが目的になってしまって、本末転倒な状態。ね。
今目の前にできることがあるのに、それをすることでは心の底にある自分の欲求を満たすことはできない。それをするのでは誰も自分に注目してくれない。
若者が起こす事件の動機には、このように自分の存在を認めてもらいたいから。と言うものもあるそうです。
人生の目的が、他人の関心を引くことになってしまう最終形が、自殺や他殺になってしまうなんて、悲しすぎますよね。
このような野心を「神経症的野心」といい、他人に優越することそのものが重要だある野心のことを指すそうです。
こうなると詰みです。
目の前な愛する人を幸せにすることができるのに、それでは満足できない。この人にとって、家族や愛する人は世間を見返す道具になっているのです。
心が健康な人が、神経症的な人の近くに来ると「どうしてそんなに他人が大事なの?」と首を傾げてしまうことがあるそうです。
僕が思うに、共依存って神経症的な人のカップリングなんじゃないんですかね。互いに互いを、世間を見返すための道具と思っている。
どう考えても健全な関係ではない共依存の状態はこれなんじゃないかと思います。
これは自分に刺さった部分ですが、
深刻に悩み、それを解決してくれるのが栄光であると思うときに、その人は病んでいる。深刻な自分の悩みを解決してくれるのが、栄光「のみ」と言うときに彼は深刻に病んでいる
だそうです。
例えば「アメリカの大学を卒業するのは栄光である」と思う時期もありました。
今では、登壇=栄光と考えている節もあります。
問題を解決してくれるとまでは思っていませんが、いいことだなと感じているのは病みの一歩手前ではないでしょうか。
自分の悩みを見つけたとき、ここに逃げ込んでしまうと病みの始まりなような気がしています。
そう思っていたら、安心する一節を見つけました。
心理的に健康な人も栄光を求めるが、たとえ栄光を得られなくてもそれほど不幸ではない。栄光を得られなくてもそれほど失望しない。栄光を求めるが、栄光なしでも幸せになれる。
よかった。。。
ここまでを振りかって
やることを見つけ、自分の不成長を受け止め、今に集中することが大事だというメッセージを受け取りました。筆者は執筆当時7,80代であり、この本の対象が4,50代であることを考えると、20代の僕が受け取るにはちょっと早すぎるアドバイスなような気がしますが。知っておくことには損のない内容だと受け取りました。
特に人生最後の瞬間がいつ来るかなんてわからないですもんね。
まず自分の恨みを解決するために自分と向き合い
そこから初めて自分のやりたいことなり何なりを見つけることができるのだと思いました。
僕はなんですかね。結構自分のリズムを守って生活できてる今の感じ結構好きなんですよね。こんな感じの「なんとなく好き」なことに目をむけるお盆を過ごしてみようと思います。